筆者について

この度は当ブログをご覧いただきありがとうございます。

こちらのページでは簡単にこのブログを書いている僕がどんな人間かを紹介させて頂きます。

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プロフィール

通称:よし、よっしー

生年月日:1988年6月16日

出身地:20歳まで三重県名張市。その後仕事で大阪へ。

所在地:台湾新北市

本職:飲食業

台湾人女性と結婚している日台夫婦の日本人旦那です!

台湾に出会うまで

幼少の頃から料理を作るのが大好きで10歳の頃には料理人になると決めていました。

田んぼばかりの三重県の田舎「名張市」で平凡な毎日を過ごしていました。

19歳で大阪にある調理師の専門学校を卒業しました。三重県から通うというむちゃなやつです(笑)

近所には働きたいと思えるような飲食店がなかったので、学校を卒業後に大阪で一人暮らしを決意!

梅田の中華料理のお店に就職しました。

飲食店での勤務は想像を絶する激務でした。

先輩スタッフからのいじめなどもあり、知らないうちに心身共に病んでしまい、適応障害になってしまいました。

夢だった料理人としての生活はあっけなく一度崩れ去りました。

仕事を辞めて治療に専念している時にテレビ大阪で「原味の夏天」というドラマを見て台湾の存在を知りました。

当時の僕は台湾がどこにあるのか?何も知りませんでした。

とにかく当時は「レイニーヤンってかわいいな~」

「この海綺麗やな~」というイメージのみで台湾に興味を持ち、徐々にネットなどで情報を得る日々が続きました。

人生を変えた台湾人との出会い

料理にしか興味がなかった僕は、学生の頃から勉強はしてきませんでした。

飲食店での挫折から未来が全く見えていませんでした。

料理しかできない自分に何ができるんだろう…悩んでばかりでした。

そんなある日、当時流行していた「mixi」というSNSを通して台湾好きの方のオフ会に参加することになりました。

この時に日本にワーホリに来ている台湾人と知り合いました。

彼との会話は僕にはとても刺激的でした。その中で僕が台湾に行くきっかけになったフレーズがあります。

「日本人は仕事に対して真面目過ぎ!君もどうして病気になるまで頑張ったの?台湾に行きなよ!きっともっと気軽に働けるよ!」

この時に「そうか!台湾に行けば飲食の仕事を続けられるかもしれない!」そう思い、台湾渡航を考えるようになりました。

台湾渡航を決意

彼との会話がきっかけで台湾ワーキングホリデー制度を使って、台湾に行くことを決めました。

専門学校を卒業すると5年以上の勤務経験がないと就労ビザの発行ができないと聞かされたため

ワーキングホリデーを選択しました。

まずは貯金をしながら、台湾華語の独学を始めました。

独学を選択した理由は簡単で勉強が苦手なので教室などに通うのに抵抗があったのと、貯金をしなければならないので少しでも使うお金を減らしたかったんです。

2011年当時大阪にあった日台交流会は主に50歳以上の人たちが政治の話を中心にお話するようなものが多く、なかなか言語交換のパートナーを探すのが難しかったです。

当時はHello talkと言ったようなアプリもなく結構苦労しました。

ちょうど良い団体がないなら自分で作っちゃおう!と単純な発想から自分で若手が集まる日台交流会を立ち上げました。

facebookは結構盛んになってきていたのでそこで仲間を募ってオフ会を繰り返して、みんなで台湾華語と日本語を教えあうグループを構築していきました。

2年ほど貯金と台湾華語独学の期間を設け2013年ついに台湾ワーキングホリデーに出発しました。

台湾ワーキングホリデー

台湾ワーキングホリデーへはエージェントのサービスを使って準備を進めました。

初めての海外が台湾ワーキングホリデーで1年だったのでお金で安心を買ったような感じです。

なんせ飛行機の乗り方もわからない。当時はワーホリで渡航している人も少なく情報もなく不安ばかりでした。

2年も独学をしていたのに台湾華語に自信がなくて「文化大学華語中心」の初級クラスに入りました。今思えば完全にクラスを間違えました。

それでも少しは学べたことがあったので後悔はそんなにありません。

3か月の語学学校生活が終わった後は無事にバイトも見つかりました。

永康街にある「度小月」という擔仔麵が有名な台湾料理レストランです。

面接官の台湾國語は対して聞き取れていませんでしたが、観光地ということもあり日本語ができる点を評価してもらえたようです。

スタッフみんな優しく仕事も程よく緩くてとても充実した日々を過ごせました。

帰国後の交流会強化

ビザ期限切れのため帰国を余儀なくされました。

台湾でたくさんの助けを借りて台湾華語の成長もしましたし、何より生活で困ったときに助けてくれる人たちがいることにとても感謝をしていました。

僕ももっと日本に来ている台湾人を助けたい!と思い、日台交流会&言語交換会の活動強化をしました。

僕が帰国した頃から台湾ブームが始まり出していたので、台湾に興味を持つ10代学生の参加も増えてきていました。

台北にいる時に参加していた言語交換グループのリーダーと相談し、大阪から台北へ行く日本人のサポートや、台北から大阪へ来る台湾人のサポートの窓口としても少し活動したりしました。

手作りのサークルとしては、結構いろんな人を助けられたんじゃないかな?と自負しています。

ローカルな手作りサークルなので知っている人は少ないと思いますが2011~2018年くらいに大阪で住んでいた台湾人の方なら知ってくれている人も多いかもしれないです。

結婚を意識し就職

そんな生活を送る中僕も30歳で結婚を意識する方と出会いました。

もともとは言語交換パートナーだった台湾人女性です。

さすがにフリーターというわけにもいかずに勇気を出して就職。

やっぱり飲食での就職でしたが程よく力を抜くスキルが身に付いていたのか大きな問題もなく

和食料理人としての日々を過ごし、2020年に無事に入籍いたしました。

コロナ禍そして台湾移住→出産

仕事自体は順調でしたが、そんなに母体の大きな会社ではなかったので2020年中頃からコロナショックで業績悪化がひどくなってきました。

先行き不安な中、嬉しいニュースもありました。

それは妻の妊娠です。一応高齢になるので自然妊娠がなかなかうまくいかずに少し落ち込んでいたので二人ともとても喜びました。

ですが、コロナ禍の被害が大きく給料カット…そして感染者は減らない。

義両親の心配も大きくなり、僕たちはある決断をしました。

コロナ感染拡大を抑えている台湾への移住です。

妻も高齢で初産。僕としても母国語が通じて、気の知れた人が多い台湾で出産させてあげたいとも思っていたので決断までは早かったです。

※もともと日本であと3年ほど貯金してから移住しようか?という計画もあったので。

2021年4月に台湾に移住しました。

ところが、移住して1か月ほどで台湾でも新型コロナ感染拡大が起きてしまいました。

内定していた仕事が取り消しになるなど、本当にきつい毎日が続きました。

それでも日々はあっという間に過ぎていくのです。

気付けば無職のうちに息子が誕生しました!

嬉しさ・不安など入り混じった感情に当初は追いつきませんでしたが

何より母子ともに無事なのが本当にうれしかったです♪

息子が産まれてすぐに新しい仕事も決まりました。

活動の拠点をネット上に

これまではリアルにたくさんの方々に会って、日台交流を進めてきましたが

生活リズムが大きく変わったことと、コロナ禍も相まって今まで通りの交流会の形を取ることが難しくなりました。

それでも何か発信していきたい!その気持ちでブログ運営を始めました。

僕自身、何もできない一人の人間でしたが台湾と触れ合うことで人生が大きく変わりました。

今、台湾に興味を持っている人たちの人生もひょっとしたら大きく好転するかもしれません。

少しでもそういう人たちの支えになる発信をしていけたらいいなと思っています。

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